人が守る。人がダメにする。
- shinosora77
- 2月20日
- 読了時間: 9分

1月のある日、山結びのグループチャットにこんなメッセージが届きました。
というFBS福岡のローカルニュースのリンクです。
ニュースを観ると、
「水位が下がった理由は明確でないが、イノシシが荒らしたあとがあるので、イノシシが何らかの原因なのでは」
?
イノシシのヌタ場になったのは「水位が下がった」結果であって、水位が下がった根本原因ではないはず。
「獣害なので特に調査しなくてもいいよね、で、幕引き」
とも受け取れる、あまりにも頓珍漢な行政側の見解だったので、「そんなはずはないだろう」と、いつもの山結びメンバーで現地を見に行くことにしました。
2月のはじめ、福岡県糟屋郡にある「県民の森」に集合。
この「県民の森」は、約1300年前、大陸や半島から日本を防衛するため、天智天皇の時代に築かれた日本最古と言われる山城「大野城」の中にあります。
その面積約342ヘクタール。
そして、自然林・人工林で構成された山城の周囲、約8kmは「版築(はんちく)」という工法で作られた土塁と谷筋の石垣で囲われています。

7世紀の古代日本で、これだけのスケールの構造物を作ったことに、ただただ圧倒されます。そして、現代の造園や土木において、こういった古代の土木技術に回帰すること、学ぶことの必要性を感じました。
実際、現代土木から有機土木に回帰する動きの中で、私たちのように土中環境改善や有機土木を広める仲間たちは、現場施工において、版築や土層の間に枝葉の有機物を敷き重ねる「敷粗朶・しきそだ(敷葉・しきは)工法」などを取り入れています。

目的の鏡ヶ池に向かう途中、尾根筋、谷筋を確認しながら大野城における水の流れを見ていきます。時に散策ルートを外れ、地形や土の湿りを確認しながら、池の水枯れについて仲間たちがそれぞれの推論を語ります。

太宰府口城門跡の石垣では、石垣の下の暗渠からつながる沢を調査しました。
城門内から湧く水を太宰府側の田畑に引くために、これも7世紀頃に作られたそうです。
沢を覆う落ち葉や枝をはらい、砂を掻くと堰き止められていた水が流れ始めます。
沢底の石をよく観察すると、石割り道具の「矢」の跡(矢穴)がついたものや、直線的な割れ面のものが見つかりました。
おそらく、上流の石垣を作る際にでた欠片を沢底に敷いていたのではないでしょうか。
沢伝いに作られた農作業用の山道は、旧太宰府町道まで続いており、大正か昭和の初め頃まで利用されていたそうです。
今回、ガイドをしていただいた県民の森の藤田さん(ニュースにも出ていらっしゃいました)の調査では、当時を知る人から
「太宰府で酒を飲んでも、牛の背に乗って帰れば家に着いた」
といった話を聞いたとか。
このような逸話から、沢や作業道が生活の中で積極的に活用されていた様子がうかがえます。
沢が下流域に水をひく灌漑設備として利用されていたころは、人の手により定期的に落ち葉や倒木が取り払われ、土砂の堆積を防ぎ、灌漑機能が保たれていたのでしょう。


沢を登り、石垣を見ます。
素朴な野面積みで、ところどころ目地が通っていたりして、技術的には粗く見えますが、1000年の時を超え、今日(こんにち)までその姿を残していることに感動を覚えます。


石垣に顔を近づけると、裏ごめ石の隙間から冷たい空気が吹いてきます。
暗渠を通る水が空気を冷やし、風を生み出しているのでしょう。
水の出元である石垣内側の谷筋は、土砂が堆積して涸沢(からさわ)に見えますが、土を掘れば湿った層が出てきます。
地形を見ながら谷筋を遡っていくと、斜面の途中に露出していた岩の岩肌には地表から苔が生えていました。おそらく常態的な水の存在が考えられます。
流れに沿って水脈を改善すれば、また往時の沢の流れが復活するかもしれません。
しかしながら、行政を動かさないと、何もできないのが歯痒いところですが。

寄り道をしながら、ようやく鏡ヶ池に到着。
大野城址には南北に縦断する林道(アスファルト舗装路)が通っています。
鏡ヶ池は、その林道を挟んで太宰府口城門(石垣)の西側にあります。(史跡マップ参照)
仮にインフラ整備で鏡ヶ池の水脈が絶たれたのであれば、すぐ近くの城門の水脈にも影響があった可能性がありますが、太宰府城門付近では、水脈が絶たれた様子は確認できませんでした。
むしろ、利活用の需要を失い、放置されたことで、水の流れが埋没してしまったように見えます。
さて、鏡ヶ池の様子は、というと。

「池」というより、「水溜り」です。
古くから、「どんな渇水時でも水が枯れない」ということで、雨乞いの神事も行われていたそうですが、雨後の水溜りといった姿に変わり果てています。
周囲にイノシシの足跡があり、まさにヌタ場です。
池の水は枯れたのか? と近くで観察すると、「湧いている」というよりも地味に「染み出している」ようでした。
下に比較の画像を掲載します(撮影年不明)。

元々、こんこんと清水が湧き出る池ではなかったものの、ここだけは水が枯れない、という不思議な池です。ゆえに、古代から池にまつわる伝説や伝承が生まれたのでしょう。
画像を比較すればわかりますが、池のほとりの木が切られ、周囲の法面のところどころ (特にオレンジのニット帽を被っている私の後ろ)が崩れています。
また、画像では見切れていますが、法面の上はコンクリート舗装された歩道が作られています。
さらに、池の周囲の環境を見てまわりました。
鏡ヶ池は「増長天礎石群」の近くにあります。
「礎石群」とは、高床式の穀物倉庫が建てられていた場所のことで、建物の柱を直接石の上に据える「石場建・いしばだて」の基礎石(礎石)が多く残る場所です。
少し離れた「焼米ヶ原」と呼ばれる「尾花礎石群」は周囲を高木に囲まれ、程よく日陰の中にありますが、増長天礎石群は影がなく、日中は陽が降り注ぐ環境の中にあります。
環境が違うという理由なのでしょうか、この二つの礎石群の保全においては異なる工法がなされていました。
尾花礎石群は、礎石の周囲を割れ石で埋める保存法。
増長天礎石群は、礎石の周囲をコンクリートで埋める保存法。
天然石は、日中の熱と夜間の冷えによる石の体積や、含有水分の膨張と収縮、乾燥で割れが起こりやすくなります(サンクラック)。
増長天礎石群は、このサンクラックが起こりやすい環境なので、コンクリートで固める工法が選択されたのでしょうか?
これは実際に施工指示をした業者に確認しないとわかりませんが・・・。


周囲を観察したあと、調査に参加したメンバーで、鏡ヶ池の現状に関して考察を行いました。
【水枯れ(もしくは湧水量の変化)の直接的原因】
池に流入、堆積した土砂によるもの。
【流入する土砂はどこから】
礎石群を保存するためのコンクリート打設が、雨水の浸透を阻害。
浸透しない雨水が舗装された歩道を通り、水下(みずしも)の池へと流れる。
水が舗装路を「走る」(水流が加速度的になること)状態で池に流れ込み、法面の土砂を削り、池の底に堆積するのが常態化。
【改善の方法・案】
堆積した土砂の浚渫、除去
礎石群保全のためのコンクリートの撤去。またはコンクリートに人為的クラックを入れる、尾花礎石群同様石畳みにするなど、雨水浸透を高める方法に
礎石群周囲へ植栽を施し礎石のサンクラックを防止
池周囲の歩道を土、または石畳の仕様に変更
【保全するために】
池の湧水量は落ちてない(推察)。
(上記)であれば、人の手による管理・手入れを定期的に行う
「管理・手入れ」とは、池に落ちる落ち葉や枯れ枝の定期的な除去(水の対流・循環が緩慢なため、有機物が分解後ヘドロ化する)。
古くは神事を行う場所であったため、状態を保つための泥かき、清掃が行われていた(推察)。
【結論】
鏡ヶ池の渇水または湧水量の減少は、イノシシによるものではない。
まとめ
shino-sora gardenでは、森や山の景色や環境に倣うお庭作りを心がけています。
尊敬し、学ぶべき先達からも、「森をみて、森に学べ」と常に教えられます。
私たちが目指す庭作り。
それは、自然のエコシステムを取り入れ、できるだけそこ(自然の中)にある資材を使って作り上げる人為的な作業でありながら、自ずと木々の成長や微生物・菌類のネットワークの構築が継続・循環できるように促すものです。
ですが、定期的な手入れを行わなければ、それは「庭」ではなくなります。
人の手が入らないからといって「自然」とは呼べず、中途半端に自然を模した「荒れ地」に成り果てる可能性さえあります。
今回、調査した大野城址における里山の創りは、原自然が持つ本質的な資源を最大限活用し、人智を尽くしながらも最小限で関わることで、自然からの恩恵をふんだんに享受するという哲学に基づいているように感じられました。
それは、古代日本の人々の圧倒的な自然への畏怖、敬意に依拠するもので、現代人類の自然に対する万能感とは大いに異なるものかと感じます。
土塁を作る、石垣を設ける、沢を切る。
借り物の自然の中に、生活や農耕に必要なインフラ設備を整えながら、自然へのストレスを最小に抑え、最大の恩恵を継続的に享受するために、人の手による細やかなメンテナンスが行われていたと想像できます。
西日本新聞もこの鏡ヶ池を記事にしていました。
「イノシシの仕業か」
冒頭のニュース映像、そしてこの記事のタイトルから、自然への無関心と不遜、安易な他責を感じるのは私だけなのでしょうか。




コメント